【 由 緒 】    
   神道は「祓い【はらい】に始まり、祓いに終わる」と言われております。
 その祓いと禊ぎ【みそぎ】をつかさどる祓戸の大神を祭る総本宮が佐久奈度神社です。当社は、朝廷が飛鳥より近江大津宮に移ったのを期に、天智天皇八年(六六九)、天皇の勅願により中臣朝臣金連【かねのむらじ】がこの地に社殿を造り、「祓戸の大神三神」を祭ったのが始まりです。
  この地は八張口、桜谷と呼ばれ「山岳裂けて低下の所を開くところがその名の由来であると社記に記されております。瀬田川の急流のつくる奇岩で古くから景勝地として知られ、『蜻蛉日記』『夫木抄』『名寄』などにも歌が詠まれています。また、近くにそびえる太神山【たなかみやま】には巨大な磐座【いわくら】もあり、農耕を守る神の山といわれ水がとりなす古代祭祀の香りを充分に伝えております。
  大自然のふところに抱かれる聖地ゆえ、平安時代より唐崎神社(滋賀県大津市唐崎)と共に天皇の厄災を祓い平安京を守護する「七瀬の祓所」のひとつとして古くからその名を知られておりました。 『文徳実録』に「仁寿元年六月甲寅、詔以近江国散久難度神列於明神」とあり、仁寿元年(八五一)「明神」となります。『三代実録』には「貞観元年正月二十七日奉授近江国散久難度神従五位上」と見え、貞観元年(八五 九)に従五位上の神階を授けられました。平安時代の有力大社がのる『延喜式【えんぎしき】神名帳』にも名神大社としてその名が載っております。
 以来、皇室・武門武将の崇敬があつく、後白河上皇、豊臣家臣渡辺勘左衛門、謄所藩主本多康俊、石川忠総などから社領が寄進され、「天下の祓所」としてその名をはせました。
  古来より伊勢神宮に参拝するには、まず当社で禊ぎをするのが習わしとされ、当地「大石」の語源も忌伊勢 (おいせ…伊勢詣での祓所の意)が訛ったものとされています。
  また、特筆すべきことは神道における最高祝詞である『大祓詞【おおはらえのことば】』のもとである『中臣大祓詞』は当社が創始地であるということです。古来より当社に伝わる祓詞が、文武天皇の時代に勅使がつかわされ『中臣大祓詞』として増補制定されました。さらに明治時代になり、国家の管理となった神社界において新たに祝詞が制定されました。それが『中臣大祓詞』より抜粋された『大祓詞』なのです。
  各地の神社では六月と十二月の晦日に奏上され、国中の罪穢れを祓うために大祓祭を行っています。また、伊勢神宮などの著名な神社では人々の祈願やお祭りのたびごと毎日のように唱えられています。
 昭和三十九年、下流の「天ヶ瀬ダム」建設に伴い旧境内地が水没予定地となるため、河畔にあったご社殿をやむなく高台に移し、現在に至っております。
 明治九年十月に村社、大正十年五月に県社に昇格いたしました。また、現在では祓戸の大神が四神ともご本殿にお祭りされ、祓戸の大神総本宮としてますます御神威をはなっております。
     
  ホームへ       次へ